理想の葬儀

ビオラの寄せ植え

年金生活に入って十数年になります。家にいる時間が長くなり、魅力のある番組が少ない、テレビを視聴する時間が減り、在宅している時は趣味の音楽CDを代わりに聴いています。その少ないテレビ視聴時間に、最近は気のせいか葬儀会社のコマーシャルが目、耳に頻繁に入ってくるような気がします。以前だったら、葬儀会社のコマーシャルが流れたとしても、気にもならず、それが喜寿(数え歳で77歳)を迎えた去年頃から、葬儀会社のコマーシャルが流れてくると、注意深く見るように変わってきたようです。何故このような心境の変化が起こったのか、これは多分自分自身の肉体の衰えが、死を連想させることに、起因しているいるのではないかと思います。喜寿(数え年で77歳)以前は死について、考えたことも無かったのですが、このような変化があることは、死が身近なものになってきている、証かも知れないと思うようになってきました。

葬儀についての考えはその人の宗教観、人生観、哲学の違いにより変わってくると思います。日本における葬儀は、ほとんどが仏教思想に基ずいて行われているようです。私の両親は熱心な仏教徒とではなく、生前に葬儀の希望について何も言ってなかたので、葬儀会社、僧侶、主導の葬儀で行われました。今までに五人の身内の葬儀を内側から見ていて思ったことは、これらの葬儀の全てが葬儀会社、僧侶、売名行為者の為の葬儀のように思えてなりませんでした。

私の実家には先祖が購入された大きな仏壇が今もありますが、亡くなった両親も私も普段は、仏壇を拝んだこともなく、法事の時に仏壇を開ける位でした。そんな家庭環境で育ったせいか宗教には全く無頓着で、現在私の家には仏壇はなく、私個人的には無宗教者です。

仏教思想の根本は念仏を唱えることで、死後の世界は極楽浄土に導かれるといわれています。仏教を信仰されている人は宗派を問わず、霊魂の不滅を信じておられるが、私は霊魂の不滅は無いの立場ですので、死後の世界は地獄も極楽もありません。地球上の一人たりとも地獄、極楽からの帰還者は存在していません。

葬儀の主役は故人であって葬儀会社、僧侶ではなく故人側の主導で、葬儀を行うと、いうのが私の考え方です。沢山のお金をかけ、沢山の僧侶を呼んで立派な葬儀を行ったとしても、故人は必ず極楽浄土にいけるかどうかは、誰にも分かりません。

現在の葬儀は生きている側の価値観、都合で行われており、故人側のことは何ら配慮されていません。私の理想の葬儀は、特別に何もする事無く、強いてお願いするなら、火葬場に行くまでの間を、私の好きなブラームス交響曲でも流してもらえればそれでよくて、後は家族皆で普段通り賑やかに、私の悪口でも言って、偲んでもらえればそれで良く、いたってシンプルな内容の葬儀です。

こんな風に自分の葬儀のことを決めておくと、不思議なことに葬儀の日が、待ち遠しいくなるような、気持ちになるのですが、それがどおしてそうなるのかは、良くわかりません。人間は必ず死にますが、人は生きている時が全てで、死の瞬間に無になり全てが終了します。生きているこの瞬間、瞬間が最も大切で残された人生を、大事に過ごしていきたいと思っています。