はじめての俳句8

ビオラの寄せ植え

今月の有名俳人は明治、大正、昭和の中頃までの三時代に活躍された、高浜虚子について書いてみたいと思います。この時代は現在のような医療技術が進んでおらず、肺結核で若くして、多くの有名作家が亡くなられています。そんな中で高浜虚子は数少ない長寿の作家で85歳で亡くなられるまでに、なんと20万余の俳句を作られたそうです。高浜虚子は同郷の先輩である正岡子規に師事し俳句を学びます。虚子は俳号、本名は清で、名付け親は正岡子規です。正岡子規没後はホトトギスの主宰になります。ホトトギスは明治、大正、昭和の前期に最も売れた文芸誌で、俳句の他小説、随筆などが掲載されており、夏目漱石の初期の作品、坊ちゃん、吾輩は猫である、はホトトギス誌上で発表されています。高浜虚子は同じ正岡子規の門下生で強力なライバル関係だった河東碧梧桐が、従来の伝統的俳句から、5・7・5の17文字、季語の有無に拘らない、新傾向俳句を提唱し、高浜虚子と袂を分かつことになります。高浜虚子はその後日本の伝統美である、花鳥風月、折々の季節感を取り入れた有季定型(句の中に季語は必ず入れ、文字数は5・7・5の17文字とする。)俳句を標榜し、河東碧梧桐とは一線を画すようになります。河東碧梧桐が提唱した新傾向俳句は、現在では無季俳句と自由律句に別れて作句活動をされていますが、江戸時代から続く伝統的俳句、有季定型俳句が圧倒的に多く、無季俳句、自由律句は少数派のようです。

高浜虚子の句

去年(こぞ)今年/貫く棒の/ごときもの

この句は虚子の有名な句でよく知られています。わずか1日で去年から今年になる時のうつろいを一本の棒のようなものだと、越年の感慨を詠まれた句です。

桐一葉/日当たりながら/落ちにけり

この句は虚子の師匠正岡子規の写生の考えを、忠実に守りながら時間の概念を取り入れた句です。桐の葉が一枚秋の日を受けながら、ゆっくり落ちていく情景を詠んだものです。

春風や/闘志抱きて/丘に立つ

この句は正岡子規に師事した同期の河東碧梧桐と、俳句に対する考えの相違から二人は決別し、それぞれの俳句の道を歩む事になります。この時の心境、決意をよんだものです。

 

自作の句

部屋中の/窓を開ければ/風光る

今月の句会の季題は「風光る」です。風光るとは春の日差しが強まり、風が光るように感じられることです。天気の良い日に部屋中の窓を開けると、一瞬で部屋中の隅々までが光輝く様子を詠んだものです。

春炬燵/今日は要らぬと/妻に言う

我が家の寝具は、シンプルで敷布団、掛布団、毛布で冬場の寒い時期は電気炬燵を使っています。二月になると比較的暖かい日もあるので、そんな暖かい日には炬燵はしないのですが、その時の光景を詠んだものです。

粕汁に/舌鼓する/下戸の顔

私は下戸の癖に何故か、粕汁、奈良漬が大好きなのです。冬場の寒い日にはよく粕汁を作ります。我が家では豚肉と野菜をたっぷり入れ、味噌で味をつけます。酒粕は非常に栄養価も高く、健康にも良い食品です。美味しくて、健康に良い粕汁を食べている至福の時を詠んだものです。

遅い初夢

鉢植えの菊ダンテベージュ

最近我が家から車で5分ぐらいの所にあった店舗が閉店され、その店舗をリホームし新たに小型のスーパーが開店しました。そのスーパーの前を車でよく通るのですが、駐車場はいつも混雑状態、賑わっているようなので、このスーパーには何か魅力があるのに違いないと思い、何時か一度は行ってみようと決めていました。操行しているうちに食料品が2~3点切れたので、これはよい機会だと思い、一度行こうと思っていたスーパーに買いに行く事にしました。入店してすぐにこの店の人気の秘密が分かりました。店舗の入り口を入ると直ぐ段ボール箱に入った商品が、陳列棚の代わりに並べられていました。これは販売価格を押さえた、販売形態で低価格を売りにしたスーパーです。勿論陳列台に並んだ商品も安く、私などのような年金生活者にとってはとっても有り難いスーパーです。昨年も1年間に自宅から車で10分圏内の所に低価格を武器にしたスーパー、ドラックストアが相次いで開店しています。消費者にとっては大変有り難い事ですが、店舗経営者は顧客の争奪戦、価格競争と厳しい経営を強いられていることは想像に難くありません。何故このような低価格を売りにした店舗(百円均一店、ファストファション店、靴店等を含む)が増えるのでしょうか。この原因は1990年のバブル経済崩壊以降30年以上続く経済が停滞している時期の事を、失われた30年とも言われています。この間の勤労者の賃金は伸びておらず、特に中小零細企業で働く勤労者は顕著で深刻です。勤労者全体の70%以上を占める低所得者は好むと好まざるとにかかわらず、低価格店舗を利用せざるを得ないのが現実です。これが低価格品販売店舗が増える原因だと考えられます。低価格を売りにした店舗は、売り上げはある程度期待できるかも知れませんが、大事な利益は薄利多売になりますから、苦労は多い割には利益は少ない事が多いようです。

それではどうすれば安売りせず、安定して、なおかつ売り上げ、利益を持続させる方法はないものでしょうか。この問題の解は国の経済規模を表すGDP国内総生産)を大きくすることに尽きると思います。GDP全体の60%が個人消費によるものです。個人消費は国民一人一人の年間消費金額で、その合計がGDPの60%を占める個人消費です。GDPが増えるということは、経済活動が活発になりこれを言い換えると景気が良くなったということです。景気の好循環を繰り返すことが政治、経済の安定につながり、現在日本政府が抱えている最大の難問題、財政危機の解決の一歩に繋がる事は確実です。

 

それでは最大の難問、景気浮揚の好循環を実現するにはどうすればよいのでしょうか、それは一部の少数優良企業に勤める勤労者の消費が増えるだけでは、国全体のGDPは対して増えません。中小零細企業に勤める勤労者の賃金を5~10%の小幅なものではなく50%以上の大幅な引上げを行う事です。20万円の給料の人は30万円に、30万円の人は45万円、40万円の人は60万円に引き上げれば、増加分の何割かは消費に回ると思います。消費が消費を生みこれが正に景気の好循環です。経済はデフレ基調からインフレ基調に向かい、企業は増収増益になり国の収入源である法人税所得税、消費税も大幅に増え、国の債務1200兆円の償却にもめどが立ち、消費税も増えることで社会保障(年金、医療、介護)問題も盤石になり、国の健全財政の道が開けてきます。中小零細企業の勤労者の賃金を増やす問題は非常に難しいかも知れませんが、政府と企業が腹を括って取り組めば実現は可能です。

 

2013年に我が国はデフレスパイラル(経済の停滞状態)からの脱却と2%の経済成長(GDPを2%増やすこと)と2%のインフレを目指した異次元の金融緩和政策を実施、2016年にはそれまでのゼロ金利政策から、更に強力なマイナス金利政策を日本銀行は導入しましたが、その効果は残念ながら見られませんでした。これは安倍政権時の目玉政策アベノミックスが機能しなかったことで、アベノミックスは失敗に終わったということです。経済成長を達成出来ない、異次元の金融緩和政策は改め徐々に正常な金融政策に戻すべきです。そうすれば為替相場は今の円安から円高に向かい、日本企業は積極的に海外展開が可能になり、更なる発展が期待できます。日本企業は現在の円安志向の消極的な経営を改め、円高志向の積極的な経営に舵を切り、再度ドイツ、中国のGDPを抜き世界2位の座に返り咲いて欲しいものです。この実現には政府と民間が一体となって取り組めば可能です。そして日本の目指す最終目標は戦争のない、平和で豊かな世界の日本化を推し進めるべきです。

 

はじめての俳句7

鉢植えの菊ダンテサーモン

今月は江戸時代三大俳人、最後の一人で俳句の中興に功績が大きかったと言われている与謝蕪村について書いてみたいと思います。蕪村は俳句の他、絵画にも優れ重要文化財級の作品を描かれ、それらの多くの作品が美術館に収蔵されています。

絵画では中国の有名な漢詩、十便十宜の十宜の部分に蕪村が挿絵を描いた十便十宜帖、そして蕪村が敬愛する、芭蕉奥の細道全作品を書き写し、そこに十三点の挿絵を蕪村が描いた俳画奥の細道図巻と十便十宜帖は、いずれも国の重要文化財に指定されている素晴らしい作品です。奥の細道図巻は、俳句を芭蕉が作り、絵を蕪村が描くという超豪華な、共同創作による俳画といえるでしょう。

一方蕪村の俳句は写実的、唯美的、絵画的な世界観に特長があります。この点は芭蕉、一茶と大きく違うところではないかと思います。絵画的な世界観を持った三句を紹介したいと思います。

蕪村の句

菜の花や/月は東に/日は西に

この句は蕪村の特徴である絵画的なところがよく出ている句です。一面眼下の菜の花畑に月が東に昇り、太陽は西に沈んでいく、菜の花畑を舞台にした天体ショーを詠んだものです。この場所は蕪村が現在の神戸市灘区の摩耶山を訪れた時に作句されたそうです。江戸時代は照明の明かりには菜種油が使われており、菜種油用の菜の花は、全国的に広く栽培されていたようです。

五月雨(さみだれ)や/大河を前に/家二軒

この句も蕪村の特長である、絵画的、写実的ところがよく出ています。さみだれは梅雨期の長雨のことで、増水した大河の前に二軒の家がひっそりと寄り添って、建っている様子を詠んだものです。降り続く長雨、増水した大河、家二軒は絵になり、現実のありのままの光景を、感情を一切入れず句にしています。

牡丹散って/打重なりぬ/二三片

この句は先の二句と違って唯美的な世界観を表現しています。牡丹の花びらが散って、二、三枚が重なって地上に落ちている、この光景を唯美的な世界観でとらえて詠んだものです。この句にも蕪村の特長である感情、侘び、寂は一切入っておらず、ただ現実のありのままの状態を淡々と句にしています。

 

自作の句

春近し/草木(くさき)の新芽/あちこちに

俳句教室から出された今月の季題は冬の季語で春近しです。春近しは春がすぐ近くまで来ている様子を表しています。自宅の小庭には水仙、つつじの新芽が見られるようになり、その光景を詠んだものです。

碧空(あおぞら)に/ひっそり咲くや/冬桜

いつも利用している図書館のすぐ近くに、小さな公園があり、そこには満開の桜の木があるのですが、誰も気がつかず素通りされています。春桜に比べ冬桜は地味で、華やかさに欠け、空の美しさに圧倒され目立たず、ひっそり咲いている冬桜の様子を詠んだものです。

焼芋は/畑(はた)のスイーツ/甘(うま)しかな

焼芋の美味しい季節です。私も焼芋が大好きでよく買って食べています。最近は芋の品種改良が進み、甘くて、美味しい焼芋が食べられます。蜜がいっぱいにのった、甘くて、美味しい焼芋を食べた時の、至福の気持ちを詠んだものです。

能登半島地震

ドレッシングの空き瓶を利用したペチニアの一輪挿し

毎年年の初めには、今年はどんな年になるのか、あれこれと詮索し、思いめぐらすのが毎年の決まりです。しかし今年はどんな年になるのか、考える暇もなく、一月一日の夕方に衝撃的なニュースが飛び込んできました。

スマホ緊急地震速報がけたたましく流れ、我が家の蛍光灯が大きく揺れ、久しぶりに地震による恐怖感を覚えました。テレビからはアナウンサーの能登半島震源とするマグネチュード7.6、震度7と絶叫調の声で、地震に対する注意事項を何度も繰り返し放送されていました。

 

火災、津波も発生し、至る所で道路が寸断、山崩れなど翌日になって被害が明らかになるにつれて地震の規模の大きさが分かってきました。

 

地震の翌日の、二日夕方遅く地震の被害地に送る救援物資を積んだ、海上保安庁の航空機と日本航空のジャンボ機が羽田空港の滑走路上で、衝突炎上し、ジャンボ機の乗員、乗客は全員無事、奇跡的に救出されましたが、海上保安庁の航空機は乗員五名、パイロット一名のうちパイロットを除く乗員五名が全員死亡という大惨事になりました。この事故は地震が起こらなければ発生していませんでしたので、この航空機同士の事故は地震による二次災害とも言えます。そしてこの事故は自然災害ではなく、明らかに人為的なミスによる人災であることに間違いはありません。

 

地震発生から一週間たちますが、死者二百名以上、安否不明者二百名以上、避難者三万人以上(一月七日現在)といわれています。阪神大震災東日本大震災熊本地震と我が国は巨大地震の傷跡がまだ完全に癒えていない、この時期にまたもや能登半島震源とする大地震です。日本は世界にも例のない、自然災害大国です。

地震、火山噴火、台風、集中豪雨、雪害、竜巻などの自然災害が毎年日本の何処かを襲って大きな被害を与えています。災害は忘れたころにやって来るという言葉がありますが、この言葉はもはや死語になってしまいました。

 

頻繁に襲ってくる自然災害による人的な被害、経済的な損失ははかり知れません。人類はこの二〜三百年の間に目覚ましい科学技術の進歩のおかげで人々を豊かにしてくれた面もあります。現在ではさらに技術は進み人間の頭能よりも優れたAI(人工知能)も開発されていますが、地震、台風、集中豪雨といった自然災害に対しては全くの無力です。

 

日本には四季があり美しい山、河、自然の景色は世界に類がありません。そのおかげで日本は農業資源、漁業資源、観光資源に恵まれ、能登半島もその例に洩れず、能登半島は豊かなところですが今回の地震で甚大な被害が出たようです。また元の能登半島に戻すのにはどれだけの時間とお金がかかるのかは分かりません。

 

過去の大地震、大型台風、集中豪雨といった大災害の被害からもその都度、粘り強い努力と不屈の精神力で乗り切っています。今回の能登半島地震もきっと日本人の英知、と不退転の実行力で、過去の大災害と同じように克服されるものと固く信じています。

 

 

はじめての俳句6

バーベナの青紫を切り花にしたものです。

今月の有名俳人の句は江戸時代三大俳人の一人、小林一茶の句三句を紹介します。一茶は三歳の時に実母を亡くし、その後父は再婚し、義母は子供に恵まれ腹違いの弟が出来、義母との確執もあり、一茶十五歳の時に父親から江戸に遊学するように勧められ実家を出ます。

江戸で俳句の宗匠に弟子入りし、苦学しながら二十七歳で俳諧師になります。五十歳の時に、それまでは全国を俳諧師として回り、俳句の本の出版などを行っていたのですが、故郷の北信濃に戻ります。

一茶は六十五歳で亡くなるまでに、三度結婚し最初の妻には四人の子供に恵まれますが、全員が病気で死亡します。二人目の妻とは離婚、三人目の妻は一茶六十五歳の時に子供が生まれますが、生れる前に一茶本人が亡くなっています。一茶の三度の結婚生活は不幸の連続でした。

 

小林一茶の句

雀の子/そこのけそこのけ/お馬が通る

この句は小学校の国語の教科書にも載っている句で、大変有名な事でも知られています。

 

やせ蛙/負けるな一茶/これにあり

この句は蛙どうしの喧嘩の様子を見て、劣勢になっているやせ蛙に対する応援の俳句ですね、蛙どうし喧嘩する事があるのは不思議です。

 

大根引き/大根で道を/教えけり

この句は大変ユーモラスな句ですね。道を教えるのは指を指して教えるのが一般的です。これは指の代りに大根を指して教えています。いかにも一茶らしい句だと思います。

以上一茶の句三句は共に自然を大切に思いながら、かつ弱者に対する応援歌のような俳句です。小林一茶の心優しい一面がよく出ていると思います。

 

 

自作の句

裸木が/景色を変える/小庭かな

我が家には小さな庭があり、桜に似た海棠という名前の花木があります。この海棠は四月初旬に満開の花を咲かせ、その後は若葉、青葉、紅葉、落葉と季節と共に彩は変わり、現在は枝だけの裸木になった海棠を見て詠んだ句です。

 

震災に/耐えし拙宅/隙間風

築五十年近くになります我が家ですが、阪神大震災による全壊は免れましたが、家のあちらこちらに震災による傷跡が見られます。二階の洋間の床にゴルフボールを置けば転がり、少し傾いている可能性があります。現在の老朽化した我が家の状態を詠んだものです。

 

半世紀/病魔に悩む/漱石忌

夏目漱石は四十九歳で胃潰瘍で亡くなられました。現在の医学でしたら百パーセント完治出来るのですが、明治、大正時代の医学では完治は難しかったようです。漱石は判明しているだけでも大量吐血に伴う胃潰瘍で、六回入院され六回目の入院された病院で亡くなられました。四十四歳の時、講演の為来阪された時にも大量吐血で緊急入院され、その病院が現在も天王寺にある湯川胃腸病院で、夏目漱石が入院したことでも、よく知られています。夏目漱石は四十代は胃潰瘍で苦しめられ、その胃潰瘍の原因になったと思われるのが、二十代後半に発病した神経衰弱です。日本人初の国費留学生として英国のロンドン大学に二年間の留学予定が、神経衰弱の為予定より早く帰国されています。大病と戦いながらあれだけ多くの名作を発表された、夏目漱石の精神力の強さは筆舌に尽くし難いです。上記の句は夏目漱石が病気に苦しめられながら、作家活動を続けられた人生を詠んだ句です。

 

 

これで今年の記事の投稿は今日で終わりです。拙い文章の記事ですがお読み頂きありがとうございました。今回は上手に書こうと思って再開しましたブログですが、なかなか思うように書けませんでした。改めて文章を書く難しさを実感しました。

 

来年も俳句と、社会一般の記事を今年よりは少しでも良くなるような内容に出来ればと思っております。来年もお読み頂ければ嬉しいです。

 

 

宝塚歌劇団の悲劇に思う

ドレッシングの空き瓶を利用したミニバラの一輪挿し

世界に例のない、女性だけで演じられる、日本独自の歌劇(オペラ)を主催する宝塚歌劇団で、創立110年になる歴史史上で初めて劇団員の不審死という不幸な事件が起こりました。亡くなられた劇団員の家族は先輩によるパワーハラスメントが繰り返し行われていたことと、長時間労働による心労と苦痛に耐えられず自死したとして、宝塚歌劇団側に謝罪と損害賠償を求め提訴されました。

何故このような痛ましい悲劇が起こってしまったのでしょうか、私は宝塚に移り住んで45年以上が経ちますが、宝塚という街は宝塚歌劇団と共に歩んできた印象が強く、宝塚歌劇団は宝塚のシンボル的存在で、誇りでもありました。今回の件は宝塚一市民としても驚きを禁じ得ません、このような思いは全国の宝塚ファン、世界の宝塚ファンも、持たれたと思います。

宝塚歌劇団の一員になるためには宝塚音楽学校を卒業しなければ夢はかないません。毎年春に行われる宝塚音楽学校卒業式は、晴れて憧れの宝塚歌劇団の一員になる夢がかない全身で喜びの表情を見せている卒業生、続いて全国から競争率20数倍の難関を勝ち取った新入生の歓喜に満ちあふれた表情の入学式、この二つの喜びのニュース映像を毎年見るたびに、我が子のことのよう嬉しく思っていいました。

しかしこの後卒業生はすぐに、新入生は2年後には劇団員になります。劇団内では巷間言われているような、パワーハラスメント長時間労働が待ち受けているとは誰一人たりとも想像できなかったのではないかと思います。夢と希望に満ちあふれた未来が、辛くて、苦しくて、悲しいいばらの道を歩まねばならない現実を知った時、歌劇団員の皆さんはどんな気持ちになられたのかを思うと心が痛みます。

最高の歌劇(オペラ)を創り、宝塚ファンを楽しませるためには、芸術性を高める鍛錬を日々重ねておられることは、想像に難くないと思います。しかしいくら芸術性追求の為の稽古だからといって一人の人間を、死に追い詰めるようなことは、決してあってはならず、許されるべきものではありません。

今回の宝塚歌劇団パワーハラスメント問題で当事者である歌劇団員に対するマスコミの取材攻勢があるようですが、一様に口をつぐんでいて劇団員からは正確な情報が得られないのが実情で、これは劇団側が劇団員に対し強い箝口令が敷かれていることによるものと思います。

いずれにしても宝塚歌劇団は表向きの、華麗で、華やかな世界と、裏の閉鎖的で、パワーハラスメント的体質の二面があるようで、このギャプの大きさは宝塚ファンにとっては大変悲しい事です。宝塚歌劇の部外者の私などは、宝塚歌劇団の中は先輩、後輩が和気あいあいとした雰囲気の中で、切磋琢磨しながら芸術の道を追求されていると想像していましたので、ショックは少なからずあります。

一度失った組織の信用を回復するのは容易なことではありません。この際劇団員全員もう一度宝塚歌劇の原典に戻り、夢をいだいて入学、卒業した宝塚音楽学校時代の事を思い出して欲しいと思います。初心に戻る事は決して悪い事ではなく、むしろ学ぶことも沢山あるのではないかと思います。裏表のないファンに開かれた、明るくて、楽しい、芸術性を追求した女性だけの歌劇(オペラ)を目指して欲しいと思います。

劇団員に対する給与、休日、社会保障といった福利厚生面の充実した環境も整えて劇団員が安心できる宝塚歌劇団を目指して欲しいと思います。

はじめての俳句5

地植えのベコニア赤と白

今月自作の句は冬の季語を使った句3句と有名俳人の句は正岡子規の句3句を投稿します。正岡子規は生涯に3000以上の俳句を作り、その中から3句選ぶということは不可能なので、私自身が感銘を受けた3句を紹介します。正岡子規は俳句の他に短歌、随筆、小説などに素晴らしい作品を残しています。文学以外にもアメリカから入って来たばかりの野球に興味をもち、野球に関する随筆を子規が働いていた新聞社の新聞に連載していました。野球用語の打者、走者、直球といった言葉は子規が訳語したもので現在でも通用します。日本の野球の発展に貢献した功績により正岡子規野球殿堂入りを果しています。野球に関する俳句、短歌も数多く作られています。

 

自作の句

サッカーの/気になる試合/勝利かな

サッカーとラクビーは冬の季語です。この句は私の母校が全国高校サッカー選手権大会の地方予選で勝ち進んでるか勝利を期待しながらスポーツ新聞を読み始めた時の心境を詠んだものです。

 

生姜湯に/ぬくもり貰う/身と心

生姜湯はすりおろした生姜、ハチミツにお湯を加え良く攪拌したものです。生姜の発汗作用で冬の寒い日に飲むと身体も心も温まるような状況を詠んだものです。

 

クリスマス/ケーキ食べぷり/孫の顔

1歳になる孫が手でケーキを直接つかんで口にほおばると口のまわりは勿論、顔中がケーキだらけになりながら無新に食べる様子を詠んだものです。

 

正岡子規の句

卯の花の/散るまで鳴くか/子規(ほととぎす)

この句は正岡子規東京大学在学中に、肺結核で喀血した翌年に作句されたもので、これ以降子規を俳号として使う事になります。

 

行く我に/とまる汝に/秋二つ

この句は正岡子規の故郷である松山に帰郷し、実家には帰らず夏目漱石の家に2か月程居候し、夏目漱石との別れを惜しんで詠んだ句です。正岡子規夏目漱石東京大学の同期生で互いに文学者としてライバル関係にあり、文学論争をかわした間柄でした。ただ正岡子規は肺結核による脊椎カリエスで35歳の若さで亡くなっています。もっと長生きしていればどれだけの作品を残せたかと思うと残念ですね。

 

柿くへば/鐘がなるなり/法隆寺

この句は松山から東京に戻る途中奈良に立ち寄った際に作句されました。正岡子規は柿が大好物で1日に10個も食べたこともあると言われています。柿の句は他にも何句かあります。奈良は柿の名産地で正岡子規はどんな種類の柿を食べたのでしょうか興味深いですね。